イ・サン王と懇談8月21日(水) イ・サン王と懇談(AM) 今日の午前中は、韓国の「万里の長城」と呼ばれる水原の華城に赴き、イ・サン王と時空を超えて懇談する。 その前に腹ごしらえだ。(^-^) レストランと紹介されているが、どう見ても田舎の食堂である。(^◇^) 一般的な韓国式朝定食を食す。 食べ方が分からないので、ビビンバ(混ぜご飯)にして食べた。 それでいいのだ。(^◇^) さぁ、イ・サン王に会いに行こう。 水原城は李氏朝鮮王朝末期に造られた。 華城行宮という王様の別邸を中心に、全長5.7kmの万里の長城のような城郭と、その要所要所に門、砲台、やぐら、兵士の休憩所、軍事指揮所、訓練所などを東西南北に整然と組み込んだ建造物である。 イ・サン王は水原城を整備するにあたり、「自然を壊すな!」と命じ、当時の地形を今に伝える。 水原市民の憩いの場でもある水原城は、1,997年に世界遺産に指定されてから修理復元も急ピッチで進み、今では韓国語が分からなくても、気軽に見学できるように整備されている。 18世紀末、李氏朝鮮第22代国王・正祖(イ・サンの事)が老論派の陰謀により非命に倒れた父の墓を、楊州から水原の顕隆園(隆陵)に移し、その周囲に城壁や塔、楼閣や城門を築いて防護を固めたのが華城である。 華城建築には、1,794年から2年を越える月日と37万人の労力が投入されたとされる。 華城は老論を排除し実学を重視した正祖の理想都市であり、一時は華城への遷都も検討されたが、華城完成直後に正祖が死亡したため遷都は見送られたという。 イ・サンは、幼くして父を失ったが、父の亡き後も形として残る孝行を続け、歴代王の中でも一番の親孝行だったという。 この水原の華城も、その1つである。 そして、年に2回以上も平壌から水原まで赴き、父の墓参りを行ったというのだ。 志半ばで倒れたイ・サンは、どれほど悔しかっただろうか。 遷都は実現しなかったが、その功績を見てみよう。 バスの駐車場から見える光景であるが、中を道路が走り自動車が通っているのが、何とも絶妙である。 ツアーメンバーと共に城壁の外に出てみる。 入って行くように見えるが、実はバスの駐車場は城壁内にあるのだ。 ガイドさんから説明を受けて城壁内に戻る。 城壁のいたる所に銃を打つ穴が水平と45度に作られていて、外敵から守るようになっている。 右側の穴が水平で、左側が45度に開いている。 この建物もオンドルが施工されていて、冬は暖かいそうである。 何のための建造物なのか、説明を受けたが忘れてしまった。 この右側には、なだらかに傾斜している広大な弓の訓練所が広がっている。 次の写真は一番高い所で、此処から王様が兵士の弓の訓練を見たのだという。 つまり、軍事指揮所である。 この軍事指揮所の奥手には、このような板張りのスペースがあって、王様は此処から色々な指示を出したとされている。 兵士たちは王様が見ているのを知っていて、出世を目論み目立とうとしたに違いない。 城内には歩行が困難な人のために、このような城内専用のバスが出ています。 但し、有料です。(^-^) イ・サンの心情を思いながら昼食に移った。 昼食は韓国冷麺なのだが、少し酸味があって見掛けよりも美味しかった。 韓国冷麺(ネンミョン)は、1,950年に勃発した朝鮮戦争によって南に移住した北朝鮮出身者を通じて本格的に普及したと言われています。 元々は寒い冬の日の食べ物だったらしいのです。 寒い冬、夕食に暖かいオンドルの部屋に集まって、歯がジーンと痛くなるほど冷たい水キムチに麺を入れて食べたのが、冷麺の由来だと言われています。 そのようにして食べられていた冷麺ですが、だんだん夏の食べ物として知られるようになりました。 NIJIもキムチを入れてみた。(^◇^) 午後はソウルに移動して、弥々この旅の最大の目的であるトンイに逢いに行くが、次回の日記に託したい。 続いて 憧れのトンイとデート(PM) にお進みください。 ジャンル別一覧
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